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そのむかし、富士の樹海で少しだけ不思議なことが・・

この話しのドライブ中に撮った写真


★夏なので?、少し不思議な話しでもしようかと思います。

もう、数十年も前になるでしょうか?。当時つき合っていた彼女と富士山へドライブに行った時のことです。紅葉のシーズンで、富士山と富士五湖周辺の山並みを見に行こうと言うことになったのです。

その周回中のことでした。トイレ休憩のため、ある休憩所(ドライブイン?)に入って車を停めたのです。すでに昼食を終え、傾きかけた日差しが赤みを帯びて来るころでした。

要を足し何気なく辺りを見渡すと、「青木ヶ原樹海・遊歩道入り口 →」と言う看板が目につきました。

近くまで行って様子を見ると、両側を木々に囲まれた、まっすぐな砂利道でした。距離は400m〜500mくらい?あったでしょうか、道の先が明るくなっており、別のパーキングに繋がっているように見えます。

富士山には何度も訪れていましたが、「青木ヶ原散策」は未経験なので興味が湧きました。とは言え、樹海の端っこに、ほんの少し、切れ込みを入れただけのような道です。それほど迫力は無いかなあ、などと思いながら彼女を見ると、彼女は「怖い・・」と、思いのほか嫌がっていました。

こんな遊歩道でも、「青木ヶ原樹海」と言えば「自殺の名所」と言うイメージがつきまとうんでしょうか。それでも入り口まで強引に誘い、「だいじょうぶだよ。見てみな、他に何人も歩いてるから」と言って説得しました。

遊歩道には、30mくらい?先に、すでに数人が横一列で散策をしていたのです。・・遠い記憶ではありますが、印象に残っているのは、初老の男性と若い男、そして女子高生と思しき制服姿の女の子・・、その他二人ほどいたと思うんですが、ハッキリとは思い出せません。

ふと思ったのは、制服の女の子は、初老の男と親子なのだろうか?、それとも、若い男とカップルなのだろうか?と言うことでした。

関係が気になったのは、全員が横一列に並び、知り合いのようには見えたものの、それにしては、前を向いたまま淡々と歩いている・・。たとえば親子やカップルなら、もっと身振り手振りで、楽しげにお喋りなんかするんじゃないか?・・、そんな風に思ったのです。

ですが、そう思ったのも一瞬でした。その人たちを見て、シブシブですが、ようやく乗り気になった彼女の気が変わらない内にと、手を取り、遊歩道を歩き始めたんです。

頭上にはまだ青空が見えていましたが、晩秋の寒い時期で、傾いてしまった日差しは地面に届かず、陰った遊歩道には、時折り冷たい風が吹き抜けていました。

時折りふざけて、「あれ!?、いま奥で何か動かなかった?」と言っては、怖がる彼女をからかいながら進みました。彼女は「やめてよ!」と、ずっと僕の腕にしがみついたままでしたが、それでも好奇心が働くのか、あちこち樹海の奥を探るように見ていました。

ふと振り返ると、後ろからも数名が歩いて来るところでした。
「なんだ、けっこう人いるじゃない」
と、じつは内心ドキドキだった僕にも余裕が出て来ました。次第に慣れて来ると、遊歩道から眺める樹海は、ごく普通の森林と大差はなく、言うほど「不気味」と言う印象は受けなくなりました。

そうなると逆に、あまり奥まで行く必要も無いかな?と思えて来ました。同じような風景が続くだけで何が起こるわけでなし、車は入り口の駐車場に置いてあるので、反対側の出口まで行ってしまったら戻るのが億劫です。

そう思い、遊歩道の3分の1くらいまで来たところで、
「そろそろ引き返すか?」と言いながら、後ろを見たんです。すると、後方にいた人たちの姿が無くなっていました。

「あれ?、やっぱり飽きて帰ってしまったのかな」
と思い、彼女に、
「オレたちも戻ろうか・・」
と言った時でした。彼女が辺りを見回しながら、怯えたような声で言うのです。

「ねえ、ちょっと・・、誰もいないよ」
その声に「えっ?」と、前方を見ると、さっきまで先を歩いていた男女も、かき消すようにいなくなっていたのです。

「ええっ!、なんで?」
と思いましたが、しかしながらその時は、のんびり謎解きをする余裕は有りませんでした。薄暗くなった樹海の一本道に、僕ら二人だけが取り残されてしまった・・、その「不気味さ」の方が勝っていたのです。

背筋にゾクッとするものを感じながら、
「と、とにかく、・・戻ろう」
と、彼女に言うと、二人して、もと来た道を駐車場まで、ほとんど小走りになって戻って行ったのです。

間も無く車に乗り込み、再び富士山を周回する道を走り出したのですが、僕は、さっきまでの出来事が気になって仕方ありませんでした。が、これ以上彼女を怖がらせるのは、あまりいい趣味じゃないと思い、差し障りの無い話しをして、運転を続けることにしました。

話しを蒸し返すには、あまりに不可解な出来事だと思ったからです。マジメに考えようとすると、得体の知れないモノを認めざるを得なくなる・・、が、自分はともかく、彼女にその恐怖を受け止める余裕は無い、そう思いました。

ですが、頭の中では、「なぜ突然、誰もいなくなったのか?」の疑問が、ずっと駆け巡っていました。どう考えてもあのわずかな瞬間に、僕らの前後にいた人たち全員(合計10名弱?)が、かき消すようにいなくなるなんて、オカシイと思ったのです。

特に前を歩いていた人達です。後方の何人かは、知らぬ間に引き返したと考えられなくも有りません。が、前方は、まだまだ反対側の出口まで距離があり、とてもじゃないが、目を逸らした数秒間で歩き着けるはずが無い・・

そんな風に考えれば考えるほど、
「あれは・・、ホントは存在しないはずの、何者かだったのか?」
と言う、不条理な結論へと流れてしまいそうになるのです。

ただひとつ、考えられるとすれば「脇道へ逸れてしまった」と言うこと。ですが、記憶をたどってみても「脇道」的なものは見当たらなかったと思うのです。むしろ無かったからこそ奇妙に思ったわけで・・・

それに、樹海を知る人なら分かると思いますが、木々の間はけっこう隙間があって、たとえ脇道に逸れたとしても、途中の姿が見え隠れしてもおかしくは無いはずです。

・・が、僕も彼女も、ホントに、目を逸らした一瞬の内に二人だけになっていた、そんな感じだったんです。


最近は富士樹海付近も、Googleマップのストリートビューで見ることが出来るので、遊歩道的なものを見つけては、あの道ではないかと確かめてみるのですが、「これだ!」と言うものには中々出くわしません。・・って言うか、樹海の遊歩道ってたくさん有るんですね。

けっきょくスッキリした結論は出ることなく、その時の彼女とも別れてしまい、やがて数十年を経ても、いまだに富士山を見ては思い出し、考えれば考えるほど不可思議な思いにとらわれ、モヤモヤ、モヤモヤしていると言う日々なのです。








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