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ショウヘイ・オオタニとロイ・ハブス

★スポーツとは、いったい何なのか?。

僕が、中学の頃から熱烈に応援していた「広島カープ」は、1975年、創設26年目にして初のセ・リーグ優勝を成し遂げました。その時の僕の喜びと興奮は一言では表現出来ないほどで、母親に赤飯を炊いてもらい、近所の家に配って回ったほどでした。

ところが、その後の日本シリーズ・・
パ・リーグの覇者「阪急ブレーブス」に「0勝4敗2分」と、一勝も出来ず惨敗してしまうのです。僕の気持ちは、どん底まで沈み込んでしまいました。

もはや、リーグ優勝の興奮は残っていませんでした。阪急ブレーブスに全て奪われ、かき消されてしまったのです。

その経験から、僕は十代にして思ったのです。
「スポーツには、キリが無い」と・・

優勝を遂げた翌日から、いや、優勝が決まった瞬間から、それまでの努力は全てが御破算となり、またゼロからの戦いが始まるのだと。

つまり、スポーツとは、決して終わることの無い、「無限ループの戦い」なのです。あえて悪い言葉で言うならば、「無限地獄・・」


・・そして、あれから46年(このブログは2021年執筆)。

僕たちの目の前に現れた「大谷翔平選手」は、今や生ける伝説です。エンゼルス以外のMLB各球団は、2017年の「ショウヘイ・オオタニ争奪戦失敗」で、今更のように地団駄を踏んでいるそうです。

シアトル・マリナーズもその一つ。ジェリー・ディポトGMは、当時、大谷選手のことを「ロイ・ハブス」と呼び、「全力で獲りに行く!」と豪語していたそうです。

「ロイ・ハブス」とは?

1984年公開の傑作野球映画「ナチュラル」の主人公の名前です。演じたのはロバート・レッドフォード。で、そのヒーローを彷彿とさせると言うことで、オオタニ獲得のプロジェクトネームを、隠語で「ロイ・ハブス」と呼んでいたと言うことでしょうか。

なるほど、ロイ・ハブスは、映画ではピッチャーでもバッターでも行ける天才野球選手との設定で、僕も一瞬?ですが、「大谷くんはロイ・ハブスみたいだな」と思ったことは有りました。

ただロイは、プロ入り直前に殺人未遂事件に巻き込まれ、一度はプロ入りを断念する悲運の天才でもあったので、好青年の大谷くんと重ねるのは「どうかな?」と思ったことも確かでした。

とは言え、僕にとって「ナチュラル」は、「フィールド・オブ・ドリームス」「プリティ・リーグ」と並ぶ三大傑作野球映画なので、公開から30年以上過ぎた今も、「ロイ・ハブス」の名が、天才野球選手を象徴する言葉として使われていることに、嬉しさを感じたりもしたのです。

(ワールド・シリーズ優勝決定の瞬間、歓喜する選手たちへの祝福として、球場全体にナチュラルのテーマ音楽が流れること、知ってますか?)

日本では、何かのヒット映画と抱き合わせで購入された作品で、公開された劇場もたった二館、すぐ終了する予定だったそうです。それが「面白い」と評判になり、宣伝広告無しのまま、クチコミだけでロングラン大ヒットとなった、異色の野球映画だったんです。僕もその二館のウチのひとつで見ました。

ただし、今の若い人にとって「クチコミ」とは、TwitterなどSNSのことだそうで、ネットもスマホも無いあの時代、「クチコミ」が人から人への伝言、「口頭によるコミュニケーション」、略して「口コミ」とは「ありえない!」って話しらしいですね。

それくらい映画「ナチュラル」には、物語としての「パワー」があったのだと思います。ちなみに、監督は「レインマン」で数々の受賞をした、バリー・レビンソン監督です。


*「ナチュラル」序盤のあらすじ*
1950年代?。片田舎の農場に生まれ育ったロイ・ハブスは、19歳の時、老スカウトにピッチャーの才能を見込まれ、カブスの入団テストを受けにシカゴへと向かいます。ところが、その途中、地元に婚約者がありながら、列車の中で知り合った妖艶な女性に惹かれてしまうのです。

そして、その女性と再び会う約束をした翌日、ホテルの電話で呼び出されたロイが部屋に行くと、何故か女性は喪服姿で立ち、手には拳銃を持っていました。そして彼に「球界で最高の名選手になるんでしょ?」と問いかけたあと銃口を向け、轟音と共に、ロイは撃たれてしまうのです。

じつはその女性、スポーツ選手ばかりを狙う「殺人鬼」だったのです。有能なアスリートを見つけては誘い出し、謎かけをして、彼女が望む知的な答えができない者は「存在価値無し」とばかりに、「銀の弾丸」によって暗殺してしまう、サイコパスだったのです。

では、なぜロイが狙われたのか、列車で交わした、女性との会話を一部再現してみましょう。

女性「あなたきっと伝説になるわ。
   ランスロット卿とタークイン卿の腕比べね。マルデマア卿だったかしら?」
ロイ「・・・・・??」
女性「ホーマーを知っていて?」
ロイ「ホーマー・・?。ホームランなら知ってるけど(笑)」
女性「英雄や神々のことを書いた詩人よ。
   あなたを見たら、きっと野球のことを詩に書くわ」
ロイ「そのうち、記録という記録を破ってみせる。・・自信がある」
女性「その先の目標は?」
ロイ「人は僕を見て言う。”史上最高の名選手”だと」
女性「それで?」
ロイ「それで?、・・他に何がある?(笑)」
女性「あるわよ(キッと強い視線で見返し)
   その他にも。輝かしいことが」
ロイ「・・・・・」

この会話を通して、どうやら彼女は、記録を破ることや、名声にしか興味の無いロイ・ハブスに失望したようです。頂点に上り詰めたその先の、哲学や精神性を語ることの出来ないアスリートは、存在すら汚らわしい「スポーツバカ?」として、「処刑」に値すると判断したのかも知れません。

しかしながら不幸中の幸い、銀の弾丸は急所を外れていました。ロイは一命を取り留めたのです。しかしながら、入団テストには行けず、婚約者への罪悪感から故郷にも帰れず、そのまま何処かへと失踪してしまうのです。

・・そして16年後。35歳になったロイは、ふとしたきっかけで、大リーグのニューヨーク・ナイツに入団することになります。

当初はロートル・ルーキーとバカにされましたが、ボールの革を剥がすほどの打撃力がセンセーションとなり、やがて「身元不明の謎の天才バッター」として本塁打を量産、ついにチームと共に快進撃を始めるのです。

・・とまあ、このように、破壊力抜群のバッティング、投手でも打者でも行ける「超天才」ってことろは似ているかも知れませんが、誰にでも愛される「ショウヘイ・オオタニ」を、忌わしい過去を持つ男、「ロイ・ハブス」に例えるのは、やはりムリがありますかね。

今や大谷選手は、日本はおろか全米でも話題沸騰の選手です。しかもその活躍だけでなく、爽やかで無邪気な人柄や、小さなゴミも拾って歩く紳士的な姿が共感を呼び、好感度上がりっ放しなのですが・・・

・・しかし、そんな彼の輝きを見るにつけ思うのは、今年行われる予定の、東京オリンピックの気の毒な状況です。日本のワクチン供給の遅れで新型コロナが蔓延し、人命を危険にさらすとして中止を望む人が半数もいます。

やるとしても無観客は必至、史上最も無惨なスポーツの祭典と言わざるを得ません。ワクチンが行き届いたアメリカの球場、大歓声に迎えられ、伸び伸びとプレーに打ち込む大谷選手とは大違いです。

そのオリンピックの状況に対し、「選手に罪は無いのだが・・」と言うのが大方の評価なんですが・・、僕は、だんだんと、それは何か違うような気がするなあ、と思えて来たのです。

オリンピックは四年に一度のアスリートの夢・・
それは分かる、だけど・・

コロナの緊急事態宣言で、客足が途絶えた飲食店の人達にも「繁盛店を作りたい!」そんな夢が、確かに有ったはずなんです。ライブ中止に追い込まれた無名のバンドは、ブレイクする最後のチャンスを失ったのかも?知れないのです。

コロナ禍で、あちこちの店が閉まり、イベントが中止され、失業し、様々な人が、それぞれの夢をあきらめた中、そんな状況でもオリンピックだけは特別だと言う考え・・、何だか、納得が行かない気がして来ました。

どうしてもオリンピックに出場して、金メダルを取りたいんです!
・・それで?

思うにオリンピアンたちは今、若きロイ・ハブスが問われたように、スポーツの神様に試されているのかも知れません。

コロナ禍でもなお、あきらめ切れない「スポーツの夢」、求め続ける「勝利と言う謎」。あらゆる記録という記録を破ったあとの、その先に残る「もっと輝かしいもの」について、オリンピック選手達は、その答えを、我々に示すことが出来るのでしょうか?


・・さて、その後「ナチュラル」のロイ・ハブスがどうなったかと言うと、彼の活躍で、NYナイツはあと一勝すればリーグ優勝!ってとこで、ロイは、野球賭博でナイツ敗退に賭けた連中に、毒を盛られてしまうのです。

さらに、胃の洗浄のため入院した先で、左脇腹に残った「銀の弾丸」が発見され手術することになります。・・もちろん優勝決定戦出場は絶望的です。

その時、ロイは何を考えたのか?
じつは、ロイの活躍を耳にしたかつての婚約者(グレン・クローズ)が現れ、二人は再会を果たしていました。そして病室を訪れた彼女は、すべてを失い意気消沈するロイに向かって、静かに語り始めるのです。

ロイ「野球は終わりだ。過ちはいつまでもたたる。
   ・・知らない女だったんだ」
彼女「列車の女?」
ロイ(うなづく)
彼女「惹かれたのね」
ロイ「そうだ。だが、まさか・・」
彼女「若かったのよ」
ロイ「人生が変わった。16年間、最高の野球選手になれると思ってた」
彼女「(笑顔で)そうなったわ!」
ロイ「なっていない・・。全記録を破りたかったんだ」
彼女「それで?(ロイを優しく見つめながら)」
ロイ「それで?!。・・道を歩くと人が言う。球界最高の名選手だと」
  (そう言って、うなだれる)
彼女「人生には二つあるのよ。学ぶ人生と、その後を生きる人生と。
   記録がどうあれ、大勢の少年があなたの影響を受けたわ。大勢よ!」
ロイ「(考え込み)おやじが・・(と言いかけて沈黙)
   ・・野球が好きだ」

奇しくもロイは、「殺人鬼の女」と「婚約者の彼女」とに、時を経て、同じ問いを投げかけられたのです。記録という記録を全て破ったあとの、その先は?・・と。

そして今度もやはり、ロイは明確な答えを示すことが出来ませんでした。答えが見つからないまま、それでもロイは彼女の言葉に励まされ、ついに選手生命を賭けて、最終戦へと向かう決意をするのです。


・・ロイとは違って、ショウヘイ・オオタニは若く、誰からも愛され、幸運にも恵まれています。もしかするとこの先、ロイ・ハブスが出来なかった、記録という記録を塗り替える瞬間が訪れるのかも知れません。

だから今は、毎日が興奮と感動の連続で、「それで?」と言う謎かけの答えを探しているヒマは無いでしょう。

大谷選手はこないだ27歳の誕生日を迎えたと言うので、40歳前後まで活躍するとして、残りざっと15年ほど?。僕は、彼が引退するころには70歳を越えています。

最悪、彼の引退を見届けることが出来ないかも知れませんが、どちらにしろ、僕が目撃する最後の「野球伝説」になることは確かです。

果たして大谷選手は、ベース・ボールと言うスポーツの謎、勝負と言う、終わり無き「無限ループの謎」を解くことが出来るのでしょうか。


そのうち、記録という記録を全て破ってみせる
ワールド・シリーズ優勝も手にする!
人は僕を見て言う。”史上最高の名選手”だと


・・それで?




追伸・・・
最終戦に挑んだロイは、最後の打席、大きなファールを打ったはずみで、大切なバットを真っ二つに折ってしまいます。それは少年時代からずっと使い続けた時別なバットでした。

彼はとても動揺するのですが、同時にそれは、ロイの長く苦しい「学ぶための人生」が終わり、「その後を生きる人生」が始まったことを告げる合図でもありました・・

この後どうなる?

まだ見てない人は、購入するかレンタルでどうぞ。ロバート・レッドフォード氏は若いころ野球特待生で進学しただけあって、打撃フォームは見事です。




ロイ・ハブス、大リーグ初打席



 
 

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