★むかしむかしのお話しです。広島カープが創設26年目にして、ようやく初優勝を成し遂げた翌年、つまり1976年のこと・・
この年、神宮球場で行われるヤクルト×広島三連戦の、決まって三試合目に姿を現す二人の女子高生がいました。
彼女たちは、紺色のブレザー姿のまま球場を訪れ、まだ芝生敷きだった外野席の一角に腰を下ろし、ヒザを抱え、どこかボンヤリとした雰囲気で、静かに野球を眺めているのでした。
彼女たちが、いつから、どんな理由で、姿を見せるようになったのかは分かりません。ただ、1976年のシーズンが終了するまで、それが間違いなく続いていたことだけは確かなのです。
当時、僕は美大受験(油画)を目指す浪人生でした。現役、一浪目と失敗し、二浪目に突入していたのですが、その頃には、実は酷いスランプに陥っていたのです。
美大を目指すくらいなので、もちろん絵には自信が有りました。子供のころから写実的な描写が得意で、「絵の天才」などとチヤホヤされ、自分でもそう思い込んで育って来ました。が、そんな奴らは、世の中には数えきれないほどいたのです。
都心の美術研究所とは(美大予備校はこう呼ぶ)そんな「田舎の天才たち」が何百人と集まる場所でした。天才だったはずの僕は、いつしかその集団の中に埋もれ、すっかり「並みの人」になっていたのです。
毎月行われる油画とデッサンのコンクールでも(いわゆる模擬テスト)、何度描いても下位に低迷し、一位になる作品の何処がいいのかさっぱり理解できない、そんな泥沼のような日々が続いていました。
「このまま、潰れるのも時間の問題なのか?」と言う重苦しい気分の中、ふとした思いつきで見つけた気晴らしが、神宮球場での野球見物でした。研究所が新宿に有ったこともあり、帰りに足を伸ばすにはちょうどいい距離だったのです。
それからと言うもの、中学のころから「熱烈な広島ファン」だった僕は、「ヤクルト×広島戦」の予定を調べては出かけて行きました。当時の「ヤクルト×広島戦」は、まるで人気の無いカードで、応援団のいる内野席はまだしも、外野席はいつもまばら、誰が何処にいるかもすぐに分かるほどでした。
だから、制服姿の二人の女子高生を見つけることは、それほど難しいことではなかったのです。
当初は「あの子たち、また来てる・・」という程度の印象だったのですが、それが何度も続くとなると、やはり興味が湧いて来ます。いつしか神宮に来るたび、まずは外野席を見回し、彼女たちの居場所を探すようになっていました。
二人は決して熱狂的な観戦と言うのではなく、賑やかな応援団を遠巻きにして、時折り言葉を交わしながら、ゆったりと、神宮の森や、夕暮れの空や、やがて吹き抜ける、心地よい夜風を楽しんでいると言う風でした。
神宮外苑の初夏は新緑が匂いたち、芝生席に座ってウトウト野球を楽しむには絶好の季節だったのです。
彼女たちの陣取る場所は、試合ごとに違っていました。今日はレフト側かと想えば次はライト側、最前列かと想えばバックスクリーン近くだったりと、気まぐれでした。決まっているのは、二人は決して大声を出さず拍手もせず、静かにゲームを眺めていると言うことでした。
だから、どちらのファンなのかは不明でした。僕が広島戦以外は来ないので、他のカードでどうしているのかも分かりません。しかしながら、とりあえず「三連戦の必ず三試合目に現れる」と言うことだけは次第にハッキリとして来たのです。
僕も、少ない小遣いからチケット代をやり繰りするのは大変で、野球見物はカープが来た三連戦の三試合目、1ゲームだけと決めていました。で、この「三試合目」という少女たちとの偶然の合致に、何か不思議な縁でシンクロしているのかも知れない・・ そんな感じを覚えてしまったのです。
とは言え、近づいて声をかけようとか、そんな気持ちはありませんでした。ただ、試合が始まってから終わるまでの数時間、同じ空間を共有することで、安堵感のような、はかない幸福感を味わっていたのです。
なので時折り、数人の男たちが、彼女たちに近寄って話しかけたりするのを見ると、束の間の美しい時間が壊される気がして、ドキドキしました。ですが、二人がどんな風にあしらっているのか、笑顔で会話すること数分、あきらめたように男たちが去って行くのが常でした。
そうやって、その年のシーズンが終了するまで、僕と二人の女子高生は、神宮球場で行われるヤクルト×広島三連戦の決まって三試合目に訪れ、閑散とした芝生敷きの外野席で、夜風に吹かれながら同じ時間を過ごすこととなったのです。
*
やがて夏が過ぎ、ペナントレースのゆくえもほぼ決定した10月の神宮球場・・
その日は、朝から小雨が降ったり止んだりしていました。肌寒く開催も微妙かと想われましたが、消化試合と言うことで強行したのでしょう。「広島×ヤクルト」の最終戦が行われようとしていました。
広島にとっては東京でのラストゲーム。そしてローテーションからすると、ほぼ間違いなくあの池谷投手が先発するはずでした。
いつものように研究所での作業を終えて球場へ向かい、外野席のチケットを購入しました。ところが、入り口で係員に呼び止められ、バックネット裏に行くようにと指示されたのです。
じつはあまりにも観客が少なかったため、球場のはからいで、客全員がバックネット裏に集められたらしいのです。球場を半周してバックネット裏に着くころには、すでに数名が席についていました。
OL風の若い女性、ラフな服装の三十代らしき男、カップルと思しき男女二人、そして最前列には、なんと学生服姿のあの女子高生二人の姿もあったのです。僕はいつもよりかなり近い距離で、彼女たちの後ろ姿を見ることになりました。
どうやら僕が最後だったらしく、その後は誰も来ませんでした。つまり、応援団の姿も無く、このたった7人だけが、このゲームの観客の全てだったのです。
一度だけ売り子が姿を見せ、「アイスクリーム、いかがっスかあ!」と声を張り上げましたが、こんな寒い夜にアイスもビールも売れるわけがありません。しかもこの人数・・、それ以降、売り子は二度と現れませんでした。
雨こそ止んでいたものの、息も白くなるこんな夜・・
一体、どんな物好きがナイターなんか見に来るのか?
ゲームの成り行きとは別に、何かとても興味深いことでした。そしてそれは恐らく、自分以外の全員も、それぞれに抱いた感情だったのではないかと想えてならないのです。
ゲームは予想通り、広島が池谷、ヤクルトが松岡のエース対決で始まりました。
「・・ついに池谷の20勝目を、今夜、ここで目撃出来るのかも知れない」
少し興奮していました。それが、わざわざこんな日に野球見物に来た目的でもあったのです。
・・が、2回、池谷投手は連打を浴び、早くも2点を失います。今日もあまり調子が良くないようでした。彼は9月の対阪神戦で、9回裏、満塁の走者を背負ってリリーフに立ち、阪神の四番・田淵に、逆転満塁さよならホームランを打たれて以来、立ち直れないでいたのです。
「まさか、今日もダメなのか?」
気が気ではありませんでした。彼はこれまで20勝目をかけて先発しながら、五度の失敗を重ねていたからです。
優勝に貢献した昨年の20勝投手・エース外古葉が肩痛のため戦線離脱。さらに三本柱のひとり、15勝した佐伯投手が大不調。左の中継ぎ渡辺投手も、抑えの宮本投手も乱調で、あれほど強かったチームも低迷、その中でただ一人、池谷投手だけが奮闘し、19勝までは快調に飛ばして来たのです。(注*池谷投手は優勝時18勝でした)
決め球はストレート。
ストレートと分かっていてもバットに当たらない、胸のすくような快速球でした。
その鉄腕を買われたのでしょう。「頼りになるのは池谷だけ」と、当時の古葉監督は、崩壊した投手陣をあきらめ、池谷を先発・中継ぎ・抑えの全てに登板させるという、今ではあり得ない、酷使と呼ぶべき使い方をしてしまったのです。それでも、池谷はその期待に答え、黙々と投げ続けました。
そしてあの劇的な投球が行われたのは、8月の巨人戦、後楽園球場でのことでした(長嶋監督就任2年目)。三連戦の二試合目、広島がリードするも、3回、先発投手がノーアウト満塁の大ピンチを招き、巨人の主力バッターを迎えると言う場面でした。
ここで古葉監督は、なんと、前日完投勝利を上げたばかりの池谷を、マウンドに送り出したのです。放送席も観客からも、歓声と言うより「ウソだろ?」と言うどよめきが起こりました。僕も胸騒ぎがして、「ダメだ!、池谷が壊れる!」と思いました。
しかし池谷投手は、当たり前のようにマウンドに立つと、一球また一球と、投球練習を始めたのです。対するは、当時最強のクリンナップと言われた、張本・王・末次の三人・・
が、僕らの心配をよそに、なんとこの大ピンチを、全てストレートで(ホントです)、三者連続空振りの三振に打ち取ってしまったのです。しかも彼は、雄叫びを上げるわけでも無く、ガッツポーズもせず、まるで高校球児のように小走りでベンチに戻って行ったのです。
「いやあ、これは・・、球がどうこうと言うより、悲壮感としか言いようが無いですね・・」と、解説者は絶句し、僕はその言葉を聞きながら、込み上げる熱いものを抑えることが出来ませんでした。
そのころの僕は、ドン底まで落ち込み、かなり心が弱っていたのです。襲いかかる最強の軍団に、たった一人で立ち向かう池谷投手の姿が、十字架を背負った救世主のように見えて仕方なかったのです。
二浪目が始まって、一浪のころ知り合った仲間たちが、ポロポロと脱落し始めていました。ある者は気力を失って故郷へ逃げ帰り、ある者はエレベーターの中で精神錯乱を起こし、同乗者に抱きついて発狂してしまったり、そしてついには、急に姿を見せなくなった仲間について、「あいつアパートで自殺したんだって」と知らされたり・・
そんな出来事がいつも頭から離れず、押しつぶされそうになっていました。もともと美大を目指すような連中は、精神が繊細で傷つきやすく、社会にもうまく適応できないヤツが多いのです。(日本で初めて医務室に精神カウンセラーが常駐するようになったのは、東京芸大だそうです)
僕はと言えば、夜、悪夢を見てはうなされるようになりました。ヒドい時には、激しい吐き気で目を覚まし、あわててトイレに駆け込むなんてことも何回か有りました。便器の前であぶら汗を浮かべながら、
「いよいよ、オレの番かな・・」
なんて、いい知れぬ不安に苛まれていました。
そんな時に見たのが、池谷投手の「三者連続空振り三振」の力投でした。たかが野球の試合で、微かな力が湧き上がって来るのが分かりました。
けっきょくその巨人戦で池谷投手は、3回のリリーフから最後まで投げ続け、巨人打線は手も足も出ず、二日連続での勝利投手と言うことになりました。連続2試合16イニングでの球数は、トータル300球を超えていたそうです。
しかし当然のことながら、これらの無茶な起用法がやがて裏目に出て来ました。ストレートの威力が痛々しいほどに落ちて来たのです。そしてあの、田淵に浴びせられた逆転満塁さよならホームラン・・
以後、何度登板しても打ち込まれ、20勝を目前にして、まったく勝てなくなってしまったのです。そして今夜、この神宮の試合でも池谷投手のストレートは走らず、2回に続き3回にも2点を奪われ、あっと言う間に4対0と引き離されてしまうのです。
すると、その姿を見かねたと言うのでしょうか。
「池谷さーん!、ガンバッてえ!」
と、意外にもあの二人の女子高生が大声を上げたのです。
僕は驚きと同時に「やっぱり?!」と想いました。
「池谷を応援すると言うことは、あの二人もカープ・ファン?」
「い、け、が、やー!」
その直後です。今度は野太い男の声でした。どうやらカップルの男が、連れの女にせっつかれて出したようでした。
それは、遠く外野席まで木霊する大声で、あまりの声量に、女子高生二人はびっくりしたように顔を見合わせ、それから「くっ、くっ、くっ・・」と、肩を揺らして笑い始めました。
「なに?、あのカップルもカープ・ファン?」
と、その時、僕の頭には、妙な考えが浮かんだのです。
「まさか、この7人全員、カープ・ファンなんじゃないのか?」
アクションの無いOL風の若い女と、ラフな服装の男については分かりません。が、それにしても・・
こんな寒い小雨模様の夜、応援団も見捨てた人気薄のゲームに、わざわざ見物に来る物好きとはどんなヤツらなのか?。もしも全員がカープファンで?、いや、池谷ファンなのだとしたら?。・・何となく、つじつまが合うような気がして来たのです。
僕が、巨人打線を、ストレート1本で押さえた姿に心打たれたように、彼らもまた、池谷のピッチングに、何処かで救われたのではないか?。ささやかな勇気を与えてもらったのではないか?
もしそうなら、20勝達成の瞬間に立ち会い、英雄に対して心からの拍手を贈る・・、そんなことが有ってもおかしくは有りません。
そう考えてみると、女子高生二人のこれまでの態度も、「物静かな野球見物」と言うよりは、悩みを抱えて「どこか物憂げ」、そんな風にも想えて来るのです。
女子高生たちの声も、無骨な男の声も、恐らくマウンド上の池谷投手には届いていたことでしょう。ですが、声援も空しく、何度目かのピンチを迎えたところで監督がマウンドに歩み寄り、ピッチャーの交代を告げることになったのです。
池谷は監督の言葉にうなずき、マウンドを降りて行きました。その姿を、バックネット裏の7人は無言で見送っていたのです。
けっきょく試合そのものは、ヤクルトがさらに1点を追加し、5対0で松岡投手が完封勝利を納めるのです。が、試合終了まで誰一人として席を立つことはありませんでした。その熱心な?姿に心動かされたのか、イニングの合間には、球場からのサービスで、全員に熱いコーヒーが届けられました。
そうして試合が終了すると、ヤクルトの選手全員がバックネット前に駆け寄って、一列に並んで帽子を取り、「ありがとう、ございました!」と、深々と頭を下げました。僕たちは、拍手でそれに答えるのです。
それから席を立ち、通路を抜けて行くと、今度は出口付近で広島の選手が一列に並び、僕たちを待ち受けていました。7人はそれぞれ、声をかけたり握手を求めたり、別れを惜しむかのように、一歩ずつ足を進めるのでした。
表に出ると、冷たい雨の匂いがして、深い夜が広がっていました。街灯の明かりには、雨が霧状に降り注いでいるのが見えています。何人かは信濃町駅に向かっていましたが、その時にはもう、僕は女子高生二人の姿を見失っていました。
「まあ、いいか・・」とは想ったのですが、あと一回くらい姿を見てから・・、そういう気持ちも無くはなかったのです。少しだけそんな心残りを感じながら、いつしか信濃町駅にたどり着いていたのでした。
*
その後、池谷投手は、地元の広島市民球場でようやく20勝を達成し、最終的には最多勝と沢村賞を獲得。終盤こそ苦しんだものの、投手として最高の栄誉を手にしてシーズンを終了しました。
そして僕も?、長いスランプを脱出したのか、コンクールで何とか一位を取り、その勢いのまま翌年の受験に合格、苦しみ抜いた二年間の雪辱を晴らすこととなったのです。
その喜びが一段落したころ、ふと彼女たちのことを想い出しました。そして久しぶりに神宮球場へ行ってみることにしたのです。
しかし、どんなに見回しても二人を見つけることは出来ませんでした。そうして春が過ぎ、初夏のころになっても、とうとう、あの二人の姿を見ることは有りませんでした。
「つまり、あれが、彼女たちのラストゲームだったのだ・・」
そう気づきました。
*
あれから数十年が過ぎましたが、今でもシーズンの終わりが近づくと、時折り想い出すことが有ります。朝から小雨模様だった神宮球場。バックネット裏に集まった7人。そしてその7人に、丁寧に頭を下げてくれた両チームの選手たち・・
あれから何十年も経ち、今や神宮球場の広島戦は、カープ女子と呼ばれる若い女性ファンで一杯です。同じカープ・ファンとしては嬉しい限りですが、少しだけ場違いな感じもしないわけでは有りません。
「僕たちが熱狂したカープは終わった。
これからのカープは、もう彼女らのモノなんだ」
マエケンや堂林や、丸などに熱い声援を送る彼女たちは、むかしむかし、巨人の強力打線に、ストレート1本で立ち向かった男がいたことを知りません。20勝目前でスランプに陥り、あの神宮のマウンドから無念の降板をしたことも・・、そしてその姿をじっと見守っていた7人が、女子高生たちがいたことも・・
あの女子高生二人は今ごろどうしているのでしょう。今でも神宮球場に来るなんてことが有るのでしょうか。ひょとすると気づかないだけで、今年、たまたま見に行ったあの日、人混みのなか偶然、僕が座ったすぐ近くにいたのかも知れません。
あの時、不思議なくらいシンクロしていた僕たちなのです。まったくあり得ないことではないと想いますが?
ただし、もし奇跡的にそんなことが有ったとしても、残念ですが、僕には見つけ出すことは出来ないと思います。何しろ、あのとき僕の心に美しく刻まれたはずの、華奢で可憐な少女たちの姿は、今ではもう、五十の大台に乗った、立派な「オバさん」になってるはずなので・・
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