★ここ数日間、春先の風の強い日が続いていましたが、こういう風が吹くと、いつも思い出す曲があります・・
ずいぶん昔の曲ですが、山下達郎の「風の回廊(コリドー)」。この曲は、「HONDAインテグラ」のCMに使われたこともあり、ファンの間では(自分もそうですが)恰好のドライブ・ソングとして愛された楽曲でもあったのです。
◎ 歌詞「風の回廊(コリドー)」
ちょっと聴いただけだと、むかし去って行った恋人への想いを歌っているように想えます。つらい別れだったが、年月を経て傷も癒え、今ではむしろ懐かしい記憶として蘇る・・
アレンジが車のテンポと合っていて、「つむじ風」も疾走する車をたとえている感じがするし、なので、もしかすると男は車を運転しながら、別れた恋人を想い起こしているのではないか、そんな解釈も出来るのです。
ところが、よーく歌詞を聴いていると、少し違和感を感じるのです。
「陽だまりに 髪をとかす 今でも君はそこにいる」
この「陽だまりに 髪をとかす」と言うところが、どうも、穏やかで、落ち着き過ぎていて、快活な若い女性の描写という感じがしないのです。むしろ僕は、自分が子供のころに見た、祖母の姿を思い出していました。
母親の実家が農家だったんですが、そこに泊まりがけで遊びに行くと、毎朝必ず、祖母が朝日の差し込む縁側に正座し、結っていた長い髪をほどいてとかし始める、そんな、のんびりとした姿がありました。子供心にそれが印象に残っていて、この曲を聴いたとき、歌詞とダブって見えて来たわけなのです。
そんなある日、タツロウ氏のFM番組で、「風の回廊(コリドー)」に関する意外な話しを聞きました。それよれば、この曲は・・
「子供のころ、母親に連れられ何度も行った、風の強い上野公園の、博物館の記憶である」と言うのです。
この話しを聞いて「なるほど・・」と想いました。そう言うことならば、微妙な違和感も納得が行くではありませんか。
たとえば「陽だまりに 髪をとかす 今でも君はそこにいる」の「君」を、恋人ではなく母親に置き換えれば、あるていど年齢の行った女性の仕草だと想えるし、以後の歌詞もスッキリ意味が通って来るのです。
つまりこの曲は、失恋ソングの形を借りた、「母親を回想する歌」かも知れないと言うわけです。
タツロウ氏が音楽を志すにあたり、両親と激しく対立した時期もあったとのことですから、そんなアレコレを含めての、母親からの独り立ちは、
「涙さえ見せないで去って行った」
であり、ヒットを飛ばし成功した今となっては、
「遥か遠い日の後姿 なんて優しく蘇る」
と歌いたかったのかも知れません。
確かに、恋人との数年前の日々を想い出すにしては、「遥か遠い」との言い方は、文字通り遠すぎるんです。むしろ「数十年前の子供のころ」と解釈する方がしっくり来るのです。
だとすれば次のフレーズは、少し切ない気がします。
「愛は砂のように 僕の指のすき間を こぼれて行った」
あんなにたくさんの愛情を、優しやを与えられていたのに、見向きもせず、むしろ疎ましいとさえ感じていたあの日々、ふと、気がついた時には・・
ずいぶん昔の曲ですが、山下達郎の「風の回廊(コリドー)」。この曲は、「HONDAインテグラ」のCMに使われたこともあり、ファンの間では(自分もそうですが)恰好のドライブ・ソングとして愛された楽曲でもあったのです。
◎ 歌詞「風の回廊(コリドー)」
YouTube「HONDAインテグラ・CM」
ちょっと聴いただけだと、むかし去って行った恋人への想いを歌っているように想えます。つらい別れだったが、年月を経て傷も癒え、今ではむしろ懐かしい記憶として蘇る・・
アレンジが車のテンポと合っていて、「つむじ風」も疾走する車をたとえている感じがするし、なので、もしかすると男は車を運転しながら、別れた恋人を想い起こしているのではないか、そんな解釈も出来るのです。
ところが、よーく歌詞を聴いていると、少し違和感を感じるのです。
「陽だまりに 髪をとかす 今でも君はそこにいる」
この「陽だまりに 髪をとかす」と言うところが、どうも、穏やかで、落ち着き過ぎていて、快活な若い女性の描写という感じがしないのです。むしろ僕は、自分が子供のころに見た、祖母の姿を思い出していました。
母親の実家が農家だったんですが、そこに泊まりがけで遊びに行くと、毎朝必ず、祖母が朝日の差し込む縁側に正座し、結っていた長い髪をほどいてとかし始める、そんな、のんびりとした姿がありました。子供心にそれが印象に残っていて、この曲を聴いたとき、歌詞とダブって見えて来たわけなのです。
そんなある日、タツロウ氏のFM番組で、「風の回廊(コリドー)」に関する意外な話しを聞きました。それよれば、この曲は・・
「子供のころ、母親に連れられ何度も行った、風の強い上野公園の、博物館の記憶である」と言うのです。
この話しを聞いて「なるほど・・」と想いました。そう言うことならば、微妙な違和感も納得が行くではありませんか。
たとえば「陽だまりに 髪をとかす 今でも君はそこにいる」の「君」を、恋人ではなく母親に置き換えれば、あるていど年齢の行った女性の仕草だと想えるし、以後の歌詞もスッキリ意味が通って来るのです。
つまりこの曲は、失恋ソングの形を借りた、「母親を回想する歌」かも知れないと言うわけです。
タツロウ氏が音楽を志すにあたり、両親と激しく対立した時期もあったとのことですから、そんなアレコレを含めての、母親からの独り立ちは、
「涙さえ見せないで去って行った」
であり、ヒットを飛ばし成功した今となっては、
「遥か遠い日の後姿 なんて優しく蘇る」
と歌いたかったのかも知れません。
確かに、恋人との数年前の日々を想い出すにしては、「遥か遠い」との言い方は、文字通り遠すぎるんです。むしろ「数十年前の子供のころ」と解釈する方がしっくり来るのです。
だとすれば次のフレーズは、少し切ない気がします。
「愛は砂のように 僕の指のすき間を こぼれて行った」
あんなにたくさんの愛情を、優しやを与えられていたのに、見向きもせず、むしろ疎ましいとさえ感じていたあの日々、ふと、気がついた時には・・
僕もかつて四年間、上野の大学に通い続けていたのでよく分かるのですが、上野公園と言うのは、春先になると、とにかく強い風の吹き抜ける広場で、横断するだけで疲労困憊してしまう、そう言う場所でした。
たとえばそんな日に博物館に行って、薄暗くひっそりとした通路に立てば、天井のあたりから、「ビョ〜ッ」という、恐ろしいような風の唸りが聞こえて来る・・、その感じは確かに、「風の回廊(コリドー)」と言うタイトルにふさわしい情景だと想えるのです。
タツロウ氏も何かの折り、何十年ぶりかで博物館を訪問したのかも知れません。そのとき聴いた強い風の音、博物館の扉へとつながる通路は、遥か遠い、少年の日々へと続く記憶の回廊だ・・、そんな風に想ったのではないでしょうか。
なんて、勝手に深読みをしてしまうのです。
たとえばそんな日に博物館に行って、薄暗くひっそりとした通路に立てば、天井のあたりから、「ビョ〜ッ」という、恐ろしいような風の唸りが聞こえて来る・・、その感じは確かに、「風の回廊(コリドー)」と言うタイトルにふさわしい情景だと想えるのです。
タツロウ氏も何かの折り、何十年ぶりかで博物館を訪問したのかも知れません。そのとき聴いた強い風の音、博物館の扉へとつながる通路は、遥か遠い、少年の日々へと続く記憶の回廊だ・・、そんな風に想ったのではないでしょうか。
なんて、勝手に深読みをしてしまうのです。
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