★僕自身は東京板橋の生まれですが、両親は秋田県出身です。今は合併して大仙市となりましたが、その昔は大曲市と言って、あまりパッとしない田舎町でした。
ところが、1981年に放送されたNHK「新日本紀行」で、この町の花火大会のことが放送されると、それが評判になり次第に観光客が増えて行ったのです。そうして今では、なんと全国から70万人の人々が(2006年当時)詰めかける観光の目玉にまでなったのです。
で、少し前の土曜日なんですが、一大イベントに変貌した「大曲花火大会」の、今と昔を比較取材したドキュメンタリー、「新日本紀行ふたたび・夜空の詩人たち」が放送されました。その中で、かつての「新日本紀行」の映像をまじえながら、当時出演した花火師のその後の姿が映し出されていました。
じつは昔の「新日本紀行」に期待の花火師として登場していた「小松さん」と言う人は、母親の子供の頃の同級生だったのです。小松さんの家は元々農家ですが、第一回大会から出品していた常連でもあったそうです。
元々この大曲花火大会は「全国競技花火大会」と言って、日本中の花火師が腕を競う大会なのですが、子供の頃はそんなことも知らず、毎年見物に行ったものでした。花火大会の時期は、夏休みの終わりが近づく8月下旬の25、26日あたりです。
小学生の頃は、毎年夏休みと同時に母親と秋田に里帰りしました。実家には祖父母と叔父一家が住んでおり、そこでお盆に父親と合流し、さらに山奥の南外村の、父親の生家に行って墓参りなどするのですが、僕と母親は、父親が東京に戻った後も花火が見たくて居続けるのが常でした。
当時の東北本線は蒸気機関車で、片道10時間以上かかる長旅だったので、簡単に行ったり来たりは出来ず、いったん里帰りすると、そのまま長居してしまうと言うことがよく有ったのです。
けっきょくほぼ毎年、8月のまるまる一ヶ月を秋田で暮らすと言うことになり、だから、僕にとっての夏と言えば、田んぼの匂いであり、カエルの大合唱であり、奥羽山脈の眺めであり、花火大会の歓声だったと言うわけなのです。
今考えると、ある意味贅沢だったとも言えるのですが、その頃はそんなことにも気づかず、田舎の夏の中を駆け巡っていました。
やがて中学に上がり、親と行動するのが面倒で行かなくなってしまったのですが、高校二年のとき、5年ぶりに一人で訪れてみると、以前はケンカばかりして厄介な存在だった二つ下の従姉妹が、14歳の中学生になっていました。
1970年代の話しですから、ホントに素朴な田舎娘でしたが、透き通るような少女の雰囲気がとても眩しく、あちこち一緒に出歩くのが楽しみで、いろんなところを案内してもらいました。
が、それもお盆を過ぎると、北国の短い夏休みは終わって、従姉妹は中学に戻り、僕は再び一人になりました。そのころすでに絵を志していたので、スケッチブックを持ち、あちこちと、田舎の情景を描いて回りました。
そんなある日のこと。台風がかすめた影響で大雨になると、その日を境にして、急に、物悲しい風が吹き始めたのが分かりました。
子供の頃は気づかなかったのですが、東北の秋は、こんな風に一瞬にしてやって来るものだったのです。それからはもう夜は寒いくらいで、花火大会の頃は毛布無しではいられなくなります。
夕方、大会決行の合図の花火が打ち上がると、祖父の引くリヤカーに、ゴザや弁当や酒、ジュース、おやつ、毛布などを詰め込み、夕暮れの道を、約4キロ離れた会場の雄物川(おものがわ)の土手まで、1時間くらい歩いて行って陣取るのです。
花火大会の規模は、今と比べるとずっと地味だったと思いますが、それでも東京あたりではまず観ることの出来ない素晴らしいものでした。
花火が終わった帰り道、当時は途中に街灯がまったく無く、人の顔も分からないくらいの真っ暗闇になってしまうのです。そこを従姉妹たちと、大騒ぎして帰るのも楽しみのひとつでした。
・・あのとき描いた風景はもうありません。開発が進み、道路が整備され、町はすっかり変ってしまいました。天神様が有った裏山の辺りはスキー場になりました。そして、懐かしい人々が一人また一人と、田んぼを売って土地を離れて行くのです。
茅葺屋根だった母の実家も建て替えられ、新築の住宅になってしまいました。あの家の押し入れには「ロボット三等兵」「まぼろし探偵」など、貴重なマンガ本もたくさんあったので、それもちょっと惜しいことをしたなと思います。
僕はもう何年も花火大会には行ってませんが、両親や親戚はけっこう時間を作って見物に行っているようです。
農業のかたわら花火師をやっていた小松さんは、腕を上げ、各地の花火大会に招かれるようになると、やがて「株式会社・小松煙火工業」を立ち上げ、花火師一本になったそうです。
ですが、「新日本紀行ふたたび・夜空の詩人たち」によれば、現在は引退して息子に代を譲られたとのことです。(NHK-BSの大曲花火中継では解説をしておられました)
大曲の花火大会も年々規模が大きくなり、貴重な夏の観光資源になっているようですが、やはり僕には、祖父母や従姉妹たちとリヤカーで出かけた、あの、夏の終わりの花火大会が最高だったと言う気がするのです。
ちょうど高校生だったあの頃、ユーミンの「晩夏(ひとりの季節)」と言う曲が流れていました。そのせいでしょうか。それとも歌詞の中の情景がよく似ていたのでしょうか。あの曲を聴くと、なぜかあの夏休みのことを思い出してしまうのです。
◎晩夏(ひとりの季節)歌詞
その後の調べで、「晩夏(ひとりの季節)」は、ユーミンがコンサートで訪れた、秋田県横手市の情景をヒントに作られた、と言うことが分かりました。懐かしさを感じたのはそのせいだったんでしょうか?
(1976年NHK銀河テレビ小説「夏の故郷」主題歌)
ところが、1981年に放送されたNHK「新日本紀行」で、この町の花火大会のことが放送されると、それが評判になり次第に観光客が増えて行ったのです。そうして今では、なんと全国から70万人の人々が(2006年当時)詰めかける観光の目玉にまでなったのです。
で、少し前の土曜日なんですが、一大イベントに変貌した「大曲花火大会」の、今と昔を比較取材したドキュメンタリー、「新日本紀行ふたたび・夜空の詩人たち」が放送されました。その中で、かつての「新日本紀行」の映像をまじえながら、当時出演した花火師のその後の姿が映し出されていました。
じつは昔の「新日本紀行」に期待の花火師として登場していた「小松さん」と言う人は、母親の子供の頃の同級生だったのです。小松さんの家は元々農家ですが、第一回大会から出品していた常連でもあったそうです。
元々この大曲花火大会は「全国競技花火大会」と言って、日本中の花火師が腕を競う大会なのですが、子供の頃はそんなことも知らず、毎年見物に行ったものでした。花火大会の時期は、夏休みの終わりが近づく8月下旬の25、26日あたりです。
小学生の頃は、毎年夏休みと同時に母親と秋田に里帰りしました。実家には祖父母と叔父一家が住んでおり、そこでお盆に父親と合流し、さらに山奥の南外村の、父親の生家に行って墓参りなどするのですが、僕と母親は、父親が東京に戻った後も花火が見たくて居続けるのが常でした。
当時の東北本線は蒸気機関車で、片道10時間以上かかる長旅だったので、簡単に行ったり来たりは出来ず、いったん里帰りすると、そのまま長居してしまうと言うことがよく有ったのです。
けっきょくほぼ毎年、8月のまるまる一ヶ月を秋田で暮らすと言うことになり、だから、僕にとっての夏と言えば、田んぼの匂いであり、カエルの大合唱であり、奥羽山脈の眺めであり、花火大会の歓声だったと言うわけなのです。
今考えると、ある意味贅沢だったとも言えるのですが、その頃はそんなことにも気づかず、田舎の夏の中を駆け巡っていました。
やがて中学に上がり、親と行動するのが面倒で行かなくなってしまったのですが、高校二年のとき、5年ぶりに一人で訪れてみると、以前はケンカばかりして厄介な存在だった二つ下の従姉妹が、14歳の中学生になっていました。
1970年代の話しですから、ホントに素朴な田舎娘でしたが、透き通るような少女の雰囲気がとても眩しく、あちこち一緒に出歩くのが楽しみで、いろんなところを案内してもらいました。
が、それもお盆を過ぎると、北国の短い夏休みは終わって、従姉妹は中学に戻り、僕は再び一人になりました。そのころすでに絵を志していたので、スケッチブックを持ち、あちこちと、田舎の情景を描いて回りました。
そんなある日のこと。台風がかすめた影響で大雨になると、その日を境にして、急に、物悲しい風が吹き始めたのが分かりました。
子供の頃は気づかなかったのですが、東北の秋は、こんな風に一瞬にしてやって来るものだったのです。それからはもう夜は寒いくらいで、花火大会の頃は毛布無しではいられなくなります。
夕方、大会決行の合図の花火が打ち上がると、祖父の引くリヤカーに、ゴザや弁当や酒、ジュース、おやつ、毛布などを詰め込み、夕暮れの道を、約4キロ離れた会場の雄物川(おものがわ)の土手まで、1時間くらい歩いて行って陣取るのです。
花火大会の規模は、今と比べるとずっと地味だったと思いますが、それでも東京あたりではまず観ることの出来ない素晴らしいものでした。
花火が終わった帰り道、当時は途中に街灯がまったく無く、人の顔も分からないくらいの真っ暗闇になってしまうのです。そこを従姉妹たちと、大騒ぎして帰るのも楽しみのひとつでした。
・・あのとき描いた風景はもうありません。開発が進み、道路が整備され、町はすっかり変ってしまいました。天神様が有った裏山の辺りはスキー場になりました。そして、懐かしい人々が一人また一人と、田んぼを売って土地を離れて行くのです。
茅葺屋根だった母の実家も建て替えられ、新築の住宅になってしまいました。あの家の押し入れには「ロボット三等兵」「まぼろし探偵」など、貴重なマンガ本もたくさんあったので、それもちょっと惜しいことをしたなと思います。
僕はもう何年も花火大会には行ってませんが、両親や親戚はけっこう時間を作って見物に行っているようです。
農業のかたわら花火師をやっていた小松さんは、腕を上げ、各地の花火大会に招かれるようになると、やがて「株式会社・小松煙火工業」を立ち上げ、花火師一本になったそうです。
ですが、「新日本紀行ふたたび・夜空の詩人たち」によれば、現在は引退して息子に代を譲られたとのことです。(NHK-BSの大曲花火中継では解説をしておられました)
大曲の花火大会も年々規模が大きくなり、貴重な夏の観光資源になっているようですが、やはり僕には、祖父母や従姉妹たちとリヤカーで出かけた、あの、夏の終わりの花火大会が最高だったと言う気がするのです。
ちょうど高校生だったあの頃、ユーミンの「晩夏(ひとりの季節)」と言う曲が流れていました。そのせいでしょうか。それとも歌詞の中の情景がよく似ていたのでしょうか。あの曲を聴くと、なぜかあの夏休みのことを思い出してしまうのです。
◎晩夏(ひとりの季節)歌詞
(1976年NHK銀河テレビ小説「夏の故郷」主題歌)
大曲花火大会動画(10年以上前に母親がデジカメで撮影)
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